蘇秦 

<蘇秦>

蘇秦(~前317)は,中国の戦国時代の縦横家(外交戦略家)・政治家である。

蘇秦は東周王朝の都であった洛陽出身の人で,若い時期にの国で鬼谷という先生を師として弁論を学び,その後は官職につくことを求めて数年間諸国をめぐって自説を訴えたが,どこからも採用されなかった。

困窮して故郷の洛陽に戻ってきたところ家族や親戚から嘲笑されたが,蘇秦はこれを機に発奮して向上を決意した。彼は自分の部屋に閉じこもって一心不乱に弁論術の研究に向かい,眠気におそわれれば足のももをキリで刺して目を覚ましてまでも勉強を続け,そうして一年の苦心・忍耐の時を経て人を説得する弁論の技術を習得した。

さて当時の中国は戦国時代にあり,七つの大国が分立し天下をかけて争っていたが,そのうちの西方のが強大化し,他の六国を圧倒する勢いを示し始めていた。

遊説を再び開始した蘇秦は,秦や趙へ赴いたがいずれにおいても用いられず,そこでへと向かった。君主へのお目通りがかなうと,蘇秦は趙の国と同盟を結ぶことで燕の安全が保障されることを説き,これを燕の君主が採用して蘇秦に趙との盟約を締結する役目を任せた。

そして蘇秦は今度はへと赴き,ここにおいて君主の前でその見事な弁舌を振るった。「今や秦の国は強大となり東方への進出を虎視眈々と狙っています。しかし,もし他の六国が力を合わせるならば,その兵力は秦の十倍となり,必ずや秦を破ることができるでしょう。」これを聞いて趙の君主は大いに心を動かされ,蘇秦に各国との同盟を結ぶ任務を依頼した。

続いて,蘇秦は「鶏のくちばしになるほうが,牛の尻になるよりもよい」という,いわゆる「鶏口牛後」のことわざを引き合いに出すなど巧みな弁論によって他の国の君主の説得も進め,ついには秦に対抗する六国の同盟を結成することに成功し,とうとう彼は六国の宰相の地位にまで登りつめたのだった。

このような秦に対抗して六国の同盟をはかる戦略は合従策と呼ばれる。合従策は以上のように蘇秦によって見事に達成されたが,この後まもなくして,蘇秦ともに鬼谷先生のもとで学んだもう一人の縦横家張儀が秦と各国の同盟をはかる連衡策を展開して,結果,合従策は破られ,蘇秦は亡命の後に暗殺されることになる。

結局は合従策は崩壊したし,また上記の蘇秦の活躍には事実の誇張や混同も含まれているらしい。しかし,それにしても,自身の決心と努力によって磨き上げた弁論の技能一つで,まさに「舌先三寸」で広い中国の天下を動かしたという蘇秦の話は,非常に興味深く魅力的で,私たちの向上心を強く刺激してくれる。

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