<顔真卿>
顔真卿(709~785年)は,中国の唐の時代の書家である。
顔真卿は,字(あざな)を清臣といい,唐の都・長安において生まれた。顔氏の家系は学問や書道で名高く,顔真卿も成長すると書を学んだ。
彼は,科挙の進士科に及第して以来,昇進を重ねて諸官を歴任したが,玄宗の時代に宰相の楊国中と対立したことから山東省西部・平原郡の太守へと左遷された。まもなく起こった安史の乱においては,親族とともに義勇兵を率いて敢然と反乱軍に立ち向かった。乱後はその功績から取り立てられたが,生来の剛直な性格のために時の権臣からうとまれ遠ざけられるようになった。
書の世界では,東晋の王羲之以来,流麗典雅な書体が模範とされ重んじられていたが,顔真卿はそのような書風を一新して力強さを特徴とする書風を切り拓いた。
長安・千福寺の多宝塔の建立の由来を記した「多宝塔碑」や顔氏の家系の来歴を記した「顔氏家廟碑」には,彼の堂々とした重厚な楷書が刻まれている。また,安史の乱で非業の死を遂げた親族への追悼の書「祭姪文稿」や宮廷の儀式を乱した人物への抗議書「争坐位文稿」(「争座位帖」)では,強い感情がほとばしるような躍動的な行書がつづられている。
781年,藩鎮の李希烈による反乱が起こると,顔真卿は特使に任じられてその説得に赴くことになった。そこで彼は反乱軍に捕えられ,李希烈から仕えるように要求されるも,唐への忠誠を守ってこれに従わず,ついに殺害されることになった。
こうして顔真卿は,その書風と同じように剛直な生き方をあくまで貫き,力強い書体と生き様を後世に残すことになった。