<アルハンブラ宮殿 >
(©bernjan)
アルハンブラ宮殿は,現在のスペイン南部アンダルシア州グラナダに残る,かつてのイスラーム王朝ナスル朝の宮殿である。
アルハンブラ宮殿は,スペイン南部アンダルシア州のグラナダ市の南東部,シエラネヴァダ山脈を南に臨む切り立った丘の上に存在する。この丘には9世紀頃から城塞が築かれていたらしく,その城壁の赤い色から「アル・ハムラー」(赤の)という呼び名が生まれ,それがなまって「アルハンブラ」の名称が成立したと考えられている。13世紀にイスラーム王朝のナスル朝(1232~1492年)が成立してグラナダを都としてからは,同王朝の君主によってこの場所に宮殿が建設された。
イスラーム勢力は8世紀初めの711年にアフリカ北西部からジブラルタル海峡をわたってイベリア半島に進出し,以後その大部分を支配下に置くようになったが,11世紀からはキリスト教勢力のレコンキスタ運動を受けてしだいに後退していき,そして13世紀の初めにラス・ナバス・デ・トロサの戦いでムワッヒド朝がキリスト教勢力連合に敗れると,その退潮は決定的になった。
ナスル朝が成立したのはこうした状況においてであり,この王朝が支配することができたのはイベリア半島南部の狭い地域のみに限られていた。このように,ナスル朝の勢力は大きいものではなかったが,学問や芸術の面では宮廷を中心として栄えた。特に,14世紀には政治的状況が比較的安定したことを背景に文化面でも充実期を迎え,この時期に君主のユースフ1世ととつづくムハンマド5世によってアルハンブラ宮殿の増改築が行われて,宮殿が現在のような形へと整えられた。
<アラヤネスの中庭>
(©jan zeschky)
<獅子の中庭>
(©F.A.Locati)
アルハンブラ宮殿は一連の複合的な建築で,いくつもの広間・中庭・回廊などから構成されているが,それらのなかでも特に,ユースフ1世時代につくられた中央部の「コマレス宮」と,ムハンマド5世時代につくられた南東部の「獅子宮」が名高い。
コマレス宮の中心には,「アラヤネスの中庭」という長方形の中庭が存在する。中央には大きな池が配置されており,池の向こうに立つ「大使の間」の建物を眺めると,左右対称の建物は,中庭の池が映し出す鏡像の存在によって上下対称にもなり,秩序と調和を感じさせる光景が目の前に構成される。
一方,獅子宮の中心には「獅子の中庭」という中庭が存在する。庭の中心部には12頭の大理石製の獅子が背で支える噴水台があり,そこからあふれる水は十字の形状に伸びた水路を通って四方へと流れるようになっている。
このほか,広間の天井のムカルナス装飾(鍾乳石風装飾)や列柱の浮彫の装飾など,いたるところに繊細な美が表現されている。このような美しさから,アルハンブラ宮殿は西方イスラーム美術の極致とされている。
繁栄した14世紀が過ぎて15世紀に入るとナスル朝は衰退の道をたどり,15世紀後半には極限的状況へと追い込まれた。国内では王位継承争いが起こって政治が乱れるなか,外からはカスティリャ王国とアラゴン王国の連合により成立したスペイン王国がレコンキスタの仕上げを狙って迫った。1492年1月,ついにナスル朝は降伏を決定し,アルハンブラ宮殿を明け渡し,ジブラルタル海峡をわたってアフリカへと去っていった。
こうして8世紀の初めから800年近くにわたって続いたイスラーム勢力によるイベリア半島の支配は終焉したが,アルハンブラ宮殿はその後も改築を受けながらも残され,現在にまでその姿をしっかりととどめている。ヨーロッパ風の街並みの背後で静かにそびえるイスラーム様式の建築物の一群は,ヨーロッパとアフリカ,キリスト教世界とイスラーム世界を結び,さまざまな民族・宗教が訪れては去っていった,イベリア半島の歴史を我々に感じさせる。