<煬帝>
11月16日,中国考古学会によって,江蘇省揚州市の工事現場で3月に発見されていた古代遺跡が隋王朝第2代皇帝の煬帝の墓であることが判明したと発表されました。
煬帝(569~618)は,7世紀初期に在位した,中国の隋王朝第2代皇帝です。
煬帝は,本名を楊広といい,南北朝時代末期の569年に,隋の初代皇帝となる楊堅(文帝)の次男として生まれました。
581年に父親によって隋が建国されると北方の防衛を任され,589年には南朝の陳への攻撃を指揮官として成功させて中国統一に貢献するなど,活躍を見せました。
ただし,性格は強欲かつ残忍でした。母である皇后に取り入って兄から皇太子の地位を奪っており,父親である楊堅も彼が殺害したという説が有力です。
煬帝は604年に皇帝に即位すると,次々と積極的な政策を展開していきます。
国内では,万里の長城を修築したほか,通済渠・永済渠など中国の南北を結ぶ大運河を建設するなど,多くの資金と人員を投入して大規模な土木事業を実施しました。対外的には,ベトナム南部の林邑や,青海地方の吐谷渾,そして朝鮮北部の高句麗へと,東西南北にわたって軍事遠征を行っています。
しかし,大規模な工事による税や労役の負担のために,人々の不満は募っていきます。そして,612年から614年の3度にわたる高句麗遠征の失敗を契機に,反乱が各地で相次いで発生しました。
追い詰められた煬帝は首都の大興城(長安)を逃れて江蘇省の揚州へと避難し,しばらく情勢を見守ることを決めましたが,大興城はまもなく唐王朝を開くことになる李淵・李世民の親子の手に落ち,煬帝自身は618年に親衛隊の兵士によって殺され,こうして隋王朝は滅亡することになりました。
今回,揚州で煬帝の墓が発見されたということですが,隋の首都でもないこの地に墓が存在するのは,煬帝が揚州に逃れてそこで死去したという歴史があったからです。