『ファウスト』(ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ)

<ファウスト博士>

『ファウスト』は,19世紀前半にドイツ人作家ゲーテによって発表された戯曲である。

ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ(1749~1832)は,18世紀中頃,ドイツ中西部の都市フランクフルトで,裕福な市民の家庭に生まれた。教育熱心な父親の意向で幼い頃から充実した教育を受けて育ち,大学では法学を学んだものの身が入らず,それよりも文芸の方に惹かれて創作活動を始めた。

20代前半の若き日のゲーテは,『若きウェルテルの悩み』を発表するなど,情熱や感情など人間の生命を追求し表現するシュトルム・ウント・ドランク(疾風怒涛)運動の旗手として活躍した。20代後半以降は,公国の政治顧問,劇場の監督,イタリアへの旅行,そして数多くの恋など,豊かな現実的な人生経験を通じて自己の精神を磨き上げていき,それにともなって創作活動も発展させながらユニークかつ多様な詩や小説を生み出していった。

そして,円熟の極みに達した晩年のゲーテが,若き日から温めていた構想をまとめ上げ,死の直前になってついに完成させた大作が,『ファウスト』である。

『ファウスト』は,あらゆる学問を究めるも真の生命をつかむことができないでいることに業を煮やした博士のファウストが,悪魔と契約を交わして,生命の全てを体験していくという内容である。

ファウストは悪魔の力によって,望むがままにあらゆる体験を得られるようになるが,それには一つだけ条件があった。そのような体験のなかのどこかの瞬間に満足して,その瞬間に対して,「時よ止まれ」と思うことがあれば,そのときファウストの魂は悪魔に引き渡される,という約束である。

ファウストはこの契約に応じると,悪魔に導かれて,恋,財産,権力など,めくるめく人生の瞬間を経験していく。ファウストは生命の本質へと到達できるのか,また,悪魔との取引の行方は――。

『ファウスト』は,人間と魂,欲望と愛,神と悪といった,この世界・人生における,対極に位置した二つの根源的要素の対立・衝突に焦点を当て,それに正面から突入して立ち向かう。ゲーテの偉大なところは,そのせめぎ合う対概念を,片方をとって他方を捨てるのでもなく,両者の中間点で妥協するのでもなく,両方を追求して追求しきった末に統合を実現する点である。

人間の生命に内在する本質的な葛藤を扱っているがゆえに,『ファウスト』は,人生で葛藤に直面し,苦しみもがく私たちに対して,強く訴えかけ,精神を激しく揺さぶる。読者は,ファウスト博士という人物を通して,人間と世界のなかの矛盾し合う側面に向き合い,その超克に挑むことになると言えるだろう。「時よ止まれ」と思うときが来るのだろうか,また「時よ止まれ」と思うとすればなぜなのだろうか,それはファウスト博士だけでなく,私たちも追求し続ける問題なのだろうと思う。

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