フレデリック・ショパン 

フレデリック・ショパン

<フレデリック・ショパン>

フレデリック・ショパン(1810~1849年)は,19世紀前半のポーランド出身の音楽家である。

フレデリック・ショパンは,1810年にポーランドのワルシャワ近郊で,フランス出身の父とポーランド人でピアニストであった母との間に生まれた。幼児の頃から音楽を学び,早くから天才的な才能を発揮して神童として讃えられた。少年時代にはピアノの演奏と作曲に本格的に取り組み,1826年にワルシャワの音楽院に入るが,一方でポーランドの伝統的な音楽に触れて強い印象を受けた。

1830年,彼は故郷を離れて外国へ出ることを決意し,西欧へと向かった。出発後まもなく,オーストリアのウィーンに滞在しているときに,祖国でロシアの支配に対する革命が発生したとの知らせを聞くが,しばらくしてそれが失敗に終わったことを知った。この後,彼はオーストリアを去って,当時のヨーロッパの文化の中心地となっていたフランスのパリへと移り,自由と活気のあふれるこの都で活動していくことを決める。ここで彼は多くの芸術家たちと交流し,また女性作家ジョルジュ・サンドとの情熱的な恋などをしながら,ピアノの作曲と演奏の双方で華々しい活躍を見せていった。

ショパンは,優れたピアノの演奏家であると同時に作曲家であり,多くのピアノ曲を残してピアノによる音楽を大きく発展させた。

ショパンは自由な作風や感情の表現を特徴とするロマン主義の音楽家として知られる。彼は,ピアノ曲を通じて豊かかつ繊細な感情を表現することを実現した。また,祖国の伝統的な音楽を取り入れることで,ポロネーズやマズルカなどのポーランドの民族音楽にもとづく音楽形式を発達させている。

代表作の一つ,エチュード「別れの曲」は叙情的な作品で,華麗で洗練された音の構造のなかに,湧き上がるような感情が込められている。また,エチュード「革命」は,上述の祖国の革命が失敗に終わったことを受けて悲嘆と絶望のなかでつくったとされる曲で,激しくうねる音の波が抑えきれない悲憤を感じさせる。

ポーランドの反ロシア革命

<ポーランドの反ロシア革命>

晩年のショパンは,恋人ジョルジュ・サンドとの破局による傷心や孤独にくわえて,結核の悪化によってひどく苦しむようになった。そして,1849年,パリにおいて,39歳の若さでその生涯を終えた。

ショパンは,ヨーロッパで革命が吹き荒れた時代を生き,その短い生涯のなかで情熱を燃やし続けて音楽に力を注いだ。そして,音楽を通じて感情を見事に表現し,またポーランドの民族音楽を昇華させて,優れた作品を生み出した。こうして,彼はロマン派音楽の代表となり,またポーランド史上最高の芸術家となった。

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