<フレデリック・フランソワ・ショパン>
フレデリック・フランソワ・ショパンは,19世紀前半の,ポーランド出身のロマン主義の音楽家である。
ショパンは,1810年にポーランドのワルシャワで,フランス出身の父と,ポーランド人でピアニストであった母との間に生まれた。4歳の頃から家族にピアノを教わり,6歳から音楽の専門教育を受け,8歳ですでにピアノ公演を披露して,「ポーランドのモーツァルト」と讃えられている。1826年にワルシャワの音楽院に入り,1829年に同音楽院を首席で卒業した後,ショパンは外の世界へと飛び込むことを決意し,1830年11月の初め,ドイツとイタリアを訪ねる予定で,故郷から旅立った。
ポーランドは,18世紀後半にロシア・オーストリア・プロイセンの3国によって行われたポーランド分割以来,国家としての形態を失っており,その後,ナポレオン戦争やウィーン会議を経て,主としてロシアの支配下に置かれていた。ショパンが出発してから4週間ほどたった11月末,彼が経由地であるオーストリアのウィーンに滞在しているとき,祖国ポーランドでロシア支配に反発する蜂起が発生したとの報を聞き,まもなくしてそれが失敗に終わったことも知った。
その頃のオーストリアとロシアはウィーン体制における中心的国家として友好関係にあったため,ショパンはオーストリアを離れてフランスのパリへと移った。この時期のパリはヨーロッパの文化の中心地となっていて,名だたる芸術家が活躍していた。ショパンは,自由と活気にあふれるこの都市で活動することを決め,以後ピアノの作曲と演奏で華々しい活躍を見せていく。
ショパンは,感情・情熱を強くあざやかに表現する点に特徴を持つロマン主義の音楽家の代表とされる。叙情的な作品としてはエチュード「別れの曲」などが有名だが,この曲のように,華麗で洗練された音の構造のなかに,こみ上げ,湧き上がるような感情が込められている。
そして,もう一つの見逃すことのできない特徴は,祖国ポーランドの民族・伝統への深い愛である。少年時代にポーランドの伝統的音楽を聴いた際,その音は彼の心の深くに響き,以来,強くその影響を受けるようになった。彼は,ポロネーズ「英雄」のように,ポーランドの伝統的音楽ポロネーズやマズルカを発展・昇華させた曲を多く残している。また,祖国への愛が,形式というよりも音によって直接現れた作品もある。上述の祖国で起こった反ロシア蜂起が失敗に終わった後,彼は悲嘆と絶望のなかで曲をつくった。それが,エチュード・ハ短調,いわゆる「革命」である。激しく押し寄せ,うねるような音の波は,抑えきれない悲憤を感じさせる。
もともと体の強くなかったショパンは肺結核を患うようになっていたが,1849年,二月革命後の騒然とした情勢のパリにおいて,39歳の若さでその生涯を終えた。
ナポレオン戦争,七月革命,二月革命の起こったヨーロッパの激動の時代を,渦中のポーランドやフランスにおいて生き,感情,情熱,そして祖国への愛を短い人生のなかで燃焼させ尽くした彼は,まさにロマン主義を体現する音楽家だったと言えるだろう。